【かつお節雑学】かつお節の歴史

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 かつお節の歴史
日本最古の書物、古事記(712年)。この中に堅魚(カタウオ)という名前が登場しますが、これが鰹と呼ばれるようになりました。また養老律令(718年)に堅魚、堅魚煎汁(カタウオイロリ)とあり、これが今日のかつお節の原形で、特に煎汁は日本古来の調味料と呼ばれています。

勝男武士を食して、イザ戦陣へ!
『武教全書詳解』によれば、戦国時代にはかつお 節を戦陣に携帯したことが記されています。「是を噛ば性気を助け気分を増し、飢を凌ぐ」とあり、かつお節が兵糧として使われていたことが分かります。これは、かつお節がその語感から「勝男武士」に通じることもあり、縁起のよいものとされていました。『北条五代記』によると、天文6年(1537年)の夏のこと、北条早雲の子・氏綱が小田原沖でかつお釣りを見物していると、一匹のかつおが氏綱の船に突然飛び込んできたということです。その後、その船で武州の兵 との戦いに出かけ大勝利を収めたため、それ以降かつお節を出陣の祝宴には欠かさず供したということです。兵食として広がり、さらに旅人にとっても重要な携帯食料とされました。

紀州の甚太郎 土佐の与市
延宝2年(1674年)のこと、紀州の国(現在の和歌山県)の漁師、甚太郎が考え出した「焙乾法」によって初めて、今日のようなかつお節づくりの基礎がつくられました。それまでの天日による乾燥を藁や薪を利用する方 法に変え、煙と火熱を加えてできるだけ水分を取るように工夫しました。この方法は長い間紀州の秘密にされていましたが、後に土佐の与市によって房州・西伊豆の各地に広められました。

焼津のかつお節づくり
明治初年のかつお節業界を詳しく記した『焼津水産史』によれば、当社創業者の村松善八をはじめとする数人の者たちが様々な工夫を重ねていたことが記されています。例えば、明治21年村松善八たちは、伊豆の田子村へ赴き、現地の焙乾法によるかつお節づくりを自分自身の目で確かめてきました。その結果、焼津と田子村の相違点を探し求め、焼津独自の生切り法にこの焙乾法をプラスして焼津節をより確かな製品へと高めることに成功したのです。
明治も中期になると、今度は逆に焼津節のノウハウを広めるために、村松善八たちが他県に招かれるまでになりました。そしてついには明治28年、焼津のかつお節は全国品評会で初の一等賞を獲得、自他共に認めるかつお節づくり日本一に輝いたのです。

日本人の知恵 かつお節
現在ではかつお節の製造工程に積極的に機械化が取り入れられていますが、それでも完成するまでに180日間もの日数がかかります。かつお節は私たちの遠い祖先がつくり上げた風味豊かな優れた自然食品なのです。

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なつかしの写真館
「沖がかりの鰹から艀で水揚げ」(大正時代) 「生切作業」(昭和13年頃)「鰹節の樽詰め・荷造り」(昭和11年頃)「再建した小川製造工場」(昭和36年頃)
沖がかりの鰹から艀で水揚げ
(大正時代)
生切作業
(昭和13年頃)
鰹節の樽詰め・荷造り
(昭和11年頃)
再建した小川製造工場
(昭和36年頃)

 
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かつおおもしろ話 縁起物としてのかつお節 かつお節のうまみ


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